2014年05月23日

 静和病院B

 ●「違法性がなかった」だけではとおらない再審請求
 静和病院事件では、一般病棟の看護師が数人足りないという容疑に、詐欺罪がくわえられて、病院長と事務長に、それぞれ、懲役6年6月、5年6月の懲役刑が科せられた。
 看護師不足は、日本中すべての病院が抱えている問題で、静和病院の一般病棟で、看護師が、たとえ若干名、不足していたとしても、病院長や事務長らに、殺人罪並みの重刑を科すのは、社会通念や刑罰適正原則から逸脱しているように思われる。
 院長と事務長は、逮捕されて以後、保釈なしで、いまなお拘留中だが、同事件によって、「経営充実度」病院ランキング関東第3位(日経新聞/2004年3月8日)の設備を誇った同院も廃業に追い込まれて、現在、巨大な病院建物が廃墟と化している。
 重ねて指摘するが、このきびしい刑罰の発端は、一般病棟の看護師が数人足りなかったという健康保険法違反の容疑である。
 健康保険法違反は、せいぜい、不正受給した診療報酬の返還や課徴金納付命令等の行政処分が通例で、同法違反による逮捕、実刑判決は、前例がない。

 重罪が科されたのは、同法違反にもとづいて、詐欺罪が適用されたからである。
 だが、詐欺罪の適用には、おおいに、疑問がある。
 一つは、詐欺罪の前提となる看護師不足(健康保険法違反)が、証明されていないことである。
 判決文に、必要看護師数や不足していたとする看護師の人数について、記載がないのは、健康保険法違反や詐欺罪をみとめて、有罪判決(執行猶予)を受けた元婦長ら共犯者(実行犯)の自白による罪状認定が、そのまま、援用されたからであろう。
 自白事件の罪状認定を、否認事件に援用して、よいものか。
 二つ目は、詐欺罪容疑の根拠が、元婦長など共犯者の自供しかないことである。
 元婦長は、必要看護師数を19人と証言している。
 これは、誤認で、法が定めている人数は、9人である。
 元婦長は、一般病棟で勤務にあたっていた看護師が9人だったとも証言している。
 看護師が9人なら、健康保険法違反はなかったことになる。
 健康保険法違反がなかったのなら、詐欺罪も、成立しない。
 詐欺罪を自供した元婦長ら共犯者の証言は、詐欺罪の証拠になっていないのである。

 判決文は、必要看護師数の基準を「3対1(=19人)」としている。
 この一点だけで、有罪判決の破棄、差し戻しになってよい。
 健康保険法違反の有罪判決が、法定必要看護師数を19人とする誤った基準によって、下されているからである。
 判決文が、みずから、誤判であることを白状している。
 この誤判は、制限速度をまちがえて、制限速度内で走行していた車を捕まえ、罰金をとったのとは、わけがちがう。
 院長と事務長に、医師や経営者としての死の宣告をあたえ、5年近く拘留して、結果として、関東第3位の大病院を施設を擁する廃院に追い込んだのである。

 三つ目は、課徴金が課される診療報酬の不正受給容疑に詐欺罪を適用するのは、二重罰則で、前例がないことである。
 診療報酬20億円の不正受給が発覚した同じ静岡県の「熱海温泉病院(翔健会)」に詐欺罪が適用されたであろうか。
 診療報酬の不正受給額が50億円にのぼる愛知県の医療法人「豊岡会」に詐欺罪を適用して、代表者に重刑を科したであろうか。
 静和病院が、不正に受給したとされる診療報酬の額は、両違反額の5%、2%に満たない8700万円である。
 しかも、静和病院の吉田院長は、摘発された直後、驚いて、厚労省厚生局静岡事務所に1億円の小切手と謝罪文を持参している。
 だが、静岡県警の強制捜査にくわわった同事務所から、受け取りを拒絶されている。
 診療報酬不正受給の疑いがあるのなら、同事務所が、事前に、立ち入り検査をおこなうべきだったろう。
 だが、強制捜査まで、同事務所から、何の音沙汰もなかったという。

 静和病院事件は、行政から県警、地検、司法が一体となって、地方病院に襲いかかった観のある奇怪な事件である。
 しかも、違反したとする法令や、足りなかったとする在勤看護師数を誤認している。
 否、誤認と知りながら、誤った基準や誤認、虚偽の証言にもとづいて、有罪判決が下された。
 担当弁護士は、「健康保険法違反について争わず」として、警察・検察にたいして、何の異議も申し立てていない。
 日本の裁判は、裁判官が、検察の起訴内容を確認するだけなので、弁護側から、核心を衝く異議申し立てがなければ、求刑に近い判決が下される。
 静和病院事件の裁判では、先に、自供にもとづく共犯者の有罪判決を先行させ、同裁判の罪状認定や有罪判決を、後の院長と事務長の裁判に援用するという常套手段がとられた。
 したがって、今回の再審請求がとおれば、共犯者の有罪判決も撤回される。
 そうなれば、日本の裁判史上、前例のない不祥事となる。

 多くの再審請求が却下されるのは、有罪判決には、すでに、十分な審議が尽くされている、という理由からである。
 それに抵抗できるのは、捜査や司法手続きに、違法性があったことを証明して、司法の良心に訴えることだけであろう。
 再審請求をみるかぎり、静和病院事件は、無罪である。
 無罪であるにもかかわらず、有罪判決がでたのは、それなりの理由があるだろう。
 再審請求では、真実を知りながら誤った証言を誘導した静岡県警の誤導捜査と、虚偽の証拠をもちいた証拠捏造にふれている。
 これを証明して、世論に訴えることができれば、再審の可能性が見えてくる。

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2014年05月11日

 静和病院事件A

 ●誤判による冤罪であることをみずから白状している判決文
 静和病院事件は、司法が、警察・検察の証拠工作にひっかかった誤判による冤罪事件である。
 誤判であることは、判決文が、みずから語っている。
 関係者からあずかっている判決文にこういう一文がある。
「従来の3対1基準に相当するのが『15対1入院基本料の施設基準(15対1看護要件)』であり、静和病院が施設基準として届け出ていた4対1基準よりも厳しい要件が課せられる」
「一般病棟に関する看護職員や勤務条件において、従来の3対1基準に相当するという15対1基準に到底及ばなかった」
 静和病院一般病棟が違反したとする施設基準(15対1看護要件)は、従来の4対1よりもきびしく、3対1に相当するといっているのである。
 これは、真実か?
 3対1を一般病棟55床にあてはめると、55÷3=18.33…である。
 きりあげると、たしかに、19人になる。
 しかし、15対1看護要件の必要看護師数は、日勤7人、夜勤2人の計9人ではなかったのか?
 9人が適正なのに、これを19人とされたら、日本中の病院が、すべて、大幅な看護師不足となる。
 そういう根拠で、病院長を詐欺罪で逮捕、6年6月という重刑を科せば、刑務所は、日本中の病院長で満杯になって、日本から、病院が一軒残らず消えてしまうことになる。 
 厚生労働省が公布した施設基準(施設基準)は、下記のとおりである。
 ■15対1看護要件(55床)/55÷15×3=10.99(11人→9人)
 ■5対1看護要件(55床)/55÷5=11.00…(11人)
 ■4対1看護要件(55床)/55÷4=13.75…(14人)
 ■3対1看護要件(55床)/55÷3=18.33…(19人)
 新法である15対1看護要件は、人頭主義から人時間主義にきりかえられたので、11人は、実際は9人となる。
 義務づけられている夜勤2人が、4人時間と計算されているからある。
 
 平成18年に健康保険法が改正になるまで、適用されていたのが、4対1看護要件だった。
 4対1看護要件では、14人の看護師が必要となる。
 4対1が15対1にきりかえられた健康保険法の改正で、必要看護師数は、14人から9人となった。
 大幅な規制緩和である。
 慢性的な看護師不足が社会問題化したための国家的措置と思われる。
 ところが、静岡県警は、これを規制の強化と誤認した。
 ここから、静和病院事件がねじまがってゆく。
 もういちど、判決文からの引用を読んでいただきたい。
「従来の3対1基準に相当する15対1基準」「4対1基準よりも厳しい要件が課せられる」
 とある。
 司法も、15対1看護要件を規制の強化と思い込んでいたのである。
 平成20年4月に、静岡県警は、マスコミや厚労省静岡事務所をふくめた100人態勢で、静和病院へ強制捜査をおこなった。
 摘発の対象となったのは、平成18年4月〜9月間の健康保険法違反と、同違反にもとづく詐欺罪だった。
 同期間に、看護師数を偽って、保険診療料を不正に受給したという容疑である。
 平成18年の4月は、改正健康保険法が施行された月である。
 常識的に言って、規制が緩和された直後の強制捜査は、ありえない。
 それなら、規制がもっときびしかった、それ以前の状態を、なぜ、放置したのかという話になるからである。
 このことから、静岡県警は、健康保険法の改正を、規制強化とカン違いしていたことが明らかだ。
 
 ここに、静和病院事件の最大の謎がある。
 静岡県警は、強制捜査をおこなう一か月前の平成18年3月、厚労省厚生局静岡事務所に事情聴取をおこなって、15対1看護要件が、日勤7人、夜勤2人であることを知っていたはずである。
 本来なら、ここで、15対1看護要件違反は容疑なしとなって、捜査本部は、解散である。
 ところが、静和病院事件では、そうならなかった。
 15対1看護要件の必要看護師数が9人であることを知っていながら、強制捜査を強行したのである。
 理由は、いったん走り出したら止まらない警察捜査の習性にくわえて、「叩けばほこりが出る」という推認がはたらいたためだったろう。

 だが、ほこりはでなかった。
 15対1看護要件違反も、徹底的に洗った従業員の健康保険法不正申請も、証拠はでなかった。
 そこから、日本の司法史に前例のない、証拠改ざんによる立件という不祥事がひきおこされるのである。
 わたしが、証拠改ざんを指摘しているのではない。
 静岡県警と静岡地裁が、証拠改ざんを、みずから、暴露しているのである。
 15対1看護要件違反の唯一の証拠が、勤務予定表(証拠A)だった。
 証拠Aによると、平成18年4月の看護師の延べ勤務日数は、121日(人)である。
 121日を一か月31日で割ると、1日3.9人(日)にしかならない。
 この数字を見て、裁判官が、15対1看護要件違反を確信したのは、当然である。
 ところが、静岡警察が、証拠Aをコピーして、作成した勤務実態一覧表(証拠B)では、看護師の延べ勤務日数が、220日(人)になっている。
 10人の常勤看護師が、22日間勤務したので、220日(人)というわけで、この数字は、源泉徴収簿兼賃金台帳の数字と一致する。

 証拠Aと証拠Bは、法廷に、同時に提出された。
 証拠Bを提出したのは、厚労省厚生局静岡事務所のお墨付きをえたのが、証拠Bだったからである。
 厚労省厚生局静岡事務所は、証拠Aを見ていない。
 見ていたら、改ざんが、一発で、バレていたろう。
 繰り返すが、有罪の証拠となったのは、証拠Aの勤務日数121である。
 ところが、証拠Bでは、勤務日数が、220になっている。
 そのことに、裁判官が気づかなかったのは、表記方法が異なっていたからである。
 表記方法はどうあれ、前裁判では、勤務日数121と220が並立したのは、事実である。
 矛盾する2つの証拠が並立した裁判で、どうして、正義と公正が担保されるか。
 それ以前に、これでは、とても、裁判にならない。

 静岡県警と静岡地裁は、看護師の総勤務日数が220だったことを知っていた。
 知っていながら、総勤務日数が121の証拠Aを提出して、裁判官の誤判を誘導した。
 静和病院事件の有罪判決は、司法が、警察・検察に騙されて、下した誤判で、日本の裁判史上、これほど露骨な証拠隠滅は、前例がない。
 証拠隠滅には、無実の者を陥れる意図で、無実の証明に役立つ証拠を隠蔽した場合にも、適用される。
 裁判官を欺くために、総勤務日数121の証拠Aを提出した行為も、当然、証拠隠滅罪に抵触する。
 証拠Aの121は、もともと、220だった数字を改ざんしたものである。
 コピーされた証拠Bが220ということは、コピー元の証拠Aも、元々、220だったからである。
 次回以降、提出された再審請求書をもとに、証拠捏造の手口を検証していこう。
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2014年05月06日

静和病院事件@

 ●なぜ、記者会見で、証拠捏造を告発しなかったのか
 看護師の人数が足りなかったという健康保険法違反に、詐欺罪を適用されて、病院院長に6年6月の重刑が科された静和病院事件の再審請求が、4月21日、静岡地裁に提出された。
 この事件は、一年半ほど前、わたしが理事をつとめる「司法を正す会(村上正邦/春風の会主宰)」で議題にしたことがあっただけに、関心をもち、再審請求の準備についても、関係者から、逐次、報告をうけてきた。
 関係者の話によると、再審請求にふみきったのは、無罪の新証拠がでてきたほか、証拠捏造の明らかになったからという。
 だが、再審請求をつたえる地元紙(静岡新聞)やネット版ニュースに、証拠捏造≠フ文字はない。
 以下、その文面である。
 静岡県東伊豆町の静和病院が看護師数の水増しで診療報酬を不正受給したとして、詐欺罪で有罪判決が確定し静岡刑務所で服役中の吉田晃元院長(75)が21日、再審請求書を静岡地裁沼津支部に提出した。
 弁護団は「看護師数の水増しはなかった」として、実際のカルテや看護師の勤務表、源泉徴収票を新証拠とした。
 会見した元院長の実弟(71)と、弁護団の榎本哲也氏らは「必要な看護師数を割り出す健康保険法が2006年に改正され、警察検察も法の解釈を誤っていた」と述べ、水増ししていないと主張した。
 元院長は「不正請求は元事務職員らが了解なしに行った」と捜査段階から一貫して無罪を主張し、最高裁まで争ったが、12年6月、上告が棄却され、刑が確定した。

 一年前に聞いた話とほぼ同じで、同様の論旨を立てた上告が、最高裁から却下されている。
 上訴以上に難関の再審請求で、こんな主張をしても、万が一つにも、とおる可能性はない。
 静岡地裁が、この論旨をもって、再審決定の判断を下せば、最高裁の判断をひっくり返すことになるからだ。
 地裁に、そんな曲芸ができるはずはない。
 
 手元に、記者会見場で配られたペーパーがある。
 そこに、データ改ざん≠ニ証拠捏造≠フ文字がある。
 再審決定の唯一のカギは、袴田事件を見てわかるとおり、証拠捏造があったか否かだけだ。
 ところが、新聞記事では、これが、完全に否定されている。
「警察検察も法の解釈を誤っていた」という一文が、それだ。
 警察や検察が、法の解釈を誤っていたのなら、データ改ざんと証拠捏造は、ありえない。
 データ改ざんと証拠捏造は、警察や検察が、法を正しく解釈していたからなのだ。
 どちらなのか。
 強制捜査をおこなう一か月前の平成18年3月、厚労省厚生局静岡事務所に事情調書をおこなった静岡県警は、法(施設基準)の正しい数値を知っていった。
 その調書には、一般病棟55床の必要看護師が、日勤7人、夜勤2人の計9人と記されている。
 警察や検察は、正しく法の解釈していたのである。
 これでは、立件できない。
 なぜなら、静岡県警が作成した勤務実態一覧表では、看護師数が7人いたことになっているからである。
 施設基準では、6か月に猶予期間にかぎって、夜勤1人でも可としている。
 つまり、法定の必要看護師数は、8人だった。
 勤務実態一覧表の7人には、師長や他病棟からの補充看護師、非常勤看護師が除かれているほか、残業換算がふくまれていない。
 これらを入れると、在勤看護師は、10人を超える。
 警察や検察は、そのことも、知っていた。
 法定の必要看護師数が8人で、在勤看護師が10人以上なら、逮捕どころか、表彰ものである。
 警察や検察が、データを改ざんして、証拠改ざんをおこなったのは、そうするほかに、立件が不可能だったからである。
 データ改ざんの証拠も、揃っている。

 なぜ、弁護士や請求代理人は、記者会見で「法の解釈を誤った(知らなかった)」としてデータ改ざん≠否定したのか。
 証拠捏造を告発しなかった以上、静和病院事件は、並みの再審請求の一つとして、風化してゆくだろう。
 出版社もつかず、マスコ種になることもなく、ネットからも、消えてゆくだろう。
 だが、静和病院事件が、証拠捏造による、最大級の冤罪であることは事実だ。
 次回以降、同事件における証拠捏造の手口を、本ブログで、暴いていくことにしよう。
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2007年11月19日

「山田洋行」事件(2)

 ●防衛庁収賄疑惑「金融ルート」からのアングル
 防衛省守屋元次官のゴルフ接待スキャンダルが、ロッキード事件以来の疑獄事件に発展する公算が大きくなってきた。
 @次期輸送機エンジンをGE社へ決定するプロセスに深くかかわっていた
 Aエンジン輸入を防衛省とGE社の直接取引きにする案件を潰した
 B同エンジンの輸入窓口を「日本ミライズ」の随意契約するよう主張した
 以上、三つの疑惑が立証されるまでには、まだ、紆余曲折があるだろうが、国会喚問の「ノー」がそのままとおるとは思えない。
 意外な展開があるとすれば、守屋元次官が逆襲に転じて、久間・額賀元防衛長官の関与をチクるケースである。
 今回の事件は、GEの商権を日本ミライズ(守屋元次官・宮崎元専務)に奪われた山田洋行(久間・額賀元防衛長官)サイドが、守屋と宮崎の過剰接待を検察にリークしたのがきっかけで、もともと、内紛がらみだった。
 事件解明の推移が、山田洋行=善玉、日本ミライズ=悪玉の様相をていしているのは、山田洋行側に立っているのが、日米安保のフィクサー(事情通)と呼ばれている秋山直紀(日本平和・文化交流協会・専務理事/安全保障議員協議会・事務局長)だからで、この両団体に、久間・額賀とペンタゴン(米国防総省)、米司法局がついている。
 米司法局の協力を仰いでいる検察が、守屋・宮崎潰しのシナリオを変更して、山田洋行へ捜査の矛先をかえるとは、ちょっと、考えにくい。
 だが、今回は、検察が主導するマスコミ論調の裏をかいて、山田洋行側の汚点を追ってみよう。
 久間・額賀の関与が「政界ルート」なら、こちらは「金融ルート」である。
 山田洋行は、02年に一億八千万円の水増し請求が発覚して問題になったが、ふしぎなことに、防衛省は、取引停止の処分をおこなっていない。
 山田洋行は、いったい、どんな会社なのか。
 親会社は、山田地建(ゴルフ場)や山田ファイナンス(地上げ屋)、弥生不動産などを中心にしたコングロマリットで、山田グループとよばれている。
 山田グループは、地上げや商法違反行為で、以前より、悪名が高い。
 なにしろ、弥生不動産の不良債権(113億円)を処理した際は、米国企業の株式(150億円)や銀座の一等地にあるソワドレギンザビルなどの資産や担保物権を提供することなく、債権回収機構(RCC)に67億円の代理弁済をさせているのだ。
 山田洋行から、宮崎元専務ら有志がでていったのは、このとき、山田グループの総帥、山田正志が、山田洋行を三井住友銀行にさしだして、600パーセントの株主配当(37億円)をとるなど、当時、赤坂支店長だった西川善文と組んで、不正な資金操作をおこなったからだった。
 山田正志は、もともと、不正融資で逮捕された東京相和(東京スター)銀行・長田庄一の番頭だった男である。長田が失脚したあと、西川にのりかえ、西川も、山田という懐刀をえて、旧住友銀行の不良債権処理にのりだしてゆく。
 やり方は、山田が用意した不良債権の受け皿へ西川が融資をおこない、収益物件にしたのちに転売するという<飛ばし>で、当時、これらの融資は「西川案件」(旧住友銀行融資3部・不良債権処理)とよばれ、頭取以下、暗黙の了解事項だった。
 旧安宅産業・旧平和相互銀行・旧イトマンなど、旧住友銀行の歴代頭取が関与した巨額不良債権を処理する必要があったからで、融資3部は、そのための特殊な融資部門だった。
<飛ばし>というのは、新たに融資した別会社に不良債権を買い取らせる粉飾で、一種の不正融資である。その経済効果は――
 @受け皿を用意することで、追加融資を可能にする
 A競売による債権の買い叩きを防ぐ
 B地上げなどの操作をやりやすくする
 C清算を先送りして、値上がりを待つ
 などで、山田と組んだこの<飛ばし>が、西川案件の処理法だった。
 許永中らによって、数千億円が闇社会へ持ち去られたイトマン事件では、600億円を投じたTK青山ビルが最大の不良債権となった。西川は、これを受け皿会社へ移し、土地・建物とも収益物件に仕立て上げてのち、外資ファンドに売却した。
 このとき、地上げをおこなったのが、山田キャピタルだった。
 両人の癒着は、山田が介入した金丸信の親族会社「富士緑化」の所有地に、山田が自宅(調布)を建てていることからもうかがえる。
 この土地は、旧住友銀行が融資した一億円の抵当が付いた土地だった。西川は、旧住友銀行が担保にとった土地の上に自宅を建てたわけだが、自宅ができあがったときは、抵当権は抹消されていた。
 06年、金融庁は、旧住友銀行が、融資と抱き合わせで、デリバティブ商品を販売していたとして「一部業務停止命令」の行政処分を発表している。このとき、不祥事がおきた01〜04年にかけて頭取だった西川ら経営陣にも、月額報酬の返還など、きびしい処分が下された。
 じつは、それ以前、赤坂支店長だった西川がさかんに<飛ばし>をやっていた時代、旧住友銀行では、個人の預金30億円が消えるという、前代未聞の事件がおき、現在、東京地方裁判所で、公判がすすめられている。
 訴えているのは、風俗店経営の在日韓国人女性で、訴状によると、預金が、無断で株式投資に流用されたあと、そっくり、消えてしまったという。
 旧住友銀行は、土地およびソープランド二店舗の売却代金約30億円の預金(神田支店)を担保に、ファーストクレジット(住友信託銀行系)やサン・アミティ(99年倒産/負債総額757億円)などのノンバンクからほぼ同額の資金をひきだし、約三億円の委託保証金を積むなどして、提携関係にある大和証券をとおしてデリバティブ取引をおこなっていたもので、預金が消えたのは、ノンバンクからの借入金と相殺されたためだった。
 旧住友銀行は、預金をデリバティブ商品の購入(リスクのある株取り引き)にあてることを預金者につたえておらず、預金者がこの事実を知ったのは、大和証券に開示をもとめた「顧客勘定元帳」によってだった。
 預金がデリバティブ商品の購入にあてられていたことはわかっているが、三井住友(旧住友銀行)は、預金が消えた理由を「内部書類が廃棄されているため不明」として、説明を拒んでいる。
 堀田庄三と磯田一郎の両大物頭取が、安宅産業・平和相互銀行・イトマンで積み上げた不良債権を――最後の大物頭取といわれる西川善文が<飛ばし>や商法違反、預金強奪という手法で消しこんだのが、現在の三井住友銀行なのである。
 ちなみに、04年、三井住友銀行に査察にはいった金融庁は、ゴールドマン・サックスなどに大量の物件を売却した同行系列の大手町建物に8000億円の<飛ばし>があるとみて、西川の退陣を要求したという。
 旧住友銀行のバブルの深傷を清算した西川善文、その西川とコンビを組んでいた山田グループの総帥・山田正志が、今回の防衛省事件を仕掛け、事態は、山田の思惑どおりにすすんでいるが、守屋元次官が逮捕されることになれば、公判をつうじて、新たな巨悪の構造が、つぎつぎと明るみにでることだろう。
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2007年11月12日

「山田洋行」事件の深層(1)

 ●アメリカに仕掛けられた?小沢失脚と「CX疑獄事件」の謀略
 民主党・小沢一郎と福田康夫首相の「大連合」構想は、破談から小沢の辞任宣言、民主党幹部による留意、辞任撤回とめまぐるしく変転して、結局、もとのサヤにおさまった。
 だが、このかんの経緯の不自然さ、小沢の言動の異様さは、ただごとではない。
 最大の謎は、参院選に勝ち、安倍普三を首相の座からひきずりおろした小沢が、大連合などというヨタ話にのったことである。
 二大政党制を主張してきた小沢は、打倒自民に、政治生命を賭してきた。
 その豪腕小沢が、安易に、談合による連合にとびついたというのが、解せない。
 いったん、辞任を口にして、翌日、前言をひるがえすなどということも、以前の小沢にはなかったことだ。
 つまり、大連合談合から辞任撤回にいたる小沢の一連の言動には、まったく、整合性がないのだ。
 読売新聞・渡邊恒夫社主がもちこんできた大連合の話が、そもそも、胡散臭い。
 なにか、からくりがあると、にらんだのは、わたしだけではないだろう。
 事実、これをある方向から読み解くと、一本の筋が見えてくる。
 アメリカが、新テロ特措法を拒絶する小沢に業を煮やして、政治生命を断つぞ、と脅しをかけ、小沢がこれに屈したという構図である。
 だが、ただの心変わりでは、民主党も国民も納得しない。
 信念の政治家というイメージも地に堕ちる。
 そこで、大連合という舞台で「国連の国際治安支援部隊(ISAF)に自衛隊が参加できる恒久法を制定するなら協力する(国連決議にもとづく国際治安支援部隊への自衛隊参加は憲法違反にあたらない)」という条件をしめして、テロ特措法容認のみちをひらき、一方、民主党にたいして、辞任声明、留任懇願をうけて辞任撤回という芝居を打ち、変節をカモフラージュした。
 そういう推理が、十分、成り立つのである。
 アメリカが、小沢に脅しをかけてくる要因は、いくつもあった。
 一つは、新テロ特措法への硬直した拒絶反応。
 もう一つは、シーファー米大使にたいする無礼な対応である。
 小沢は、大使からの一回目の会談申し入れを拒否、二回目で応じたものの、大使を党本部に呼びつけて、五分間、立たせたまま待たせ、さらに別室でも待たせ、そのすがたをテレビカメラに映させて、シーファー大使をさらし者にした。
 さらに、会談中も、テレビカメラを招き入れて、これ見よがしに、大使の申し入れを拒絶するじぶんのすがたを国民にアピールした。
 このパフォーマンスで、同法延長に反対する民主党は、後戻りも、自民党との取引もできなくなった。
 かつて、親米派だった小沢が、政権欲しさとはいえ、反米の急先鋒に立ち、いま、日本でもっとも期待されている政治家ということになれば、かつて、ロッキード事件で田中角栄を葬ったアメリカが、黙ってひっこむわけはない。
 手始めが、産経新聞がリークした「隠し財産」疑惑である。
 新聞記事によると、小沢の「隠しマンション」は10以上あり、そのうちの8つは、都内一等地だという。地元の岩手県盛岡駅前と宮城県仙台市の県庁近くにも、高級マンションをもっているが、「議員資産等報告書」には記載されていない。
 この手のリークには、かならず、裏があるもので、多くは、検察情報である。
 小沢をやるぞ、というシグナルは、このとき、すでにでていたのである。
 これが、ジャブで、山田洋行事件の守屋元次官の国会喚問が必殺パンチの初弾だった。
 さらに、宮崎元伸元専務逮捕、守屋次官の再喚問という連続パンチで、小沢は、窮地に立たされる。
 返還したというもの、小沢は、山田洋行から、600万円の政治献金をうけている。
 どういう因縁かといえば、山田洋行に、航空自衛隊OBで、防衛族の田村秀昭・元参院議員(国民新党副党首)を送り込んだのが、金丸信・小沢コンビだったのである。
 その田村が「山田洋行」に、政界引退後、専用のハイヤーや秘書をつける役員待遇で採用するようはたらきかけていたことが一部の新聞にリークされた。
 この時期、そんなニュースがとびだしてきたのは、偶然ではない。
 ある筋が「政界ルートを解明しろ」という世論をおこすべく、操作しているのである。
 宮崎元専務逮捕のあと、守屋元次官の再喚問という事態になれば「航空自衛隊次期輸送機CX一〇〇〇億円の受注」をめぐる防衛庁の贈収賄事件が、いよいよ、白日のもとにさらされることになる。
 ターゲットは、政界ルートだろう。
 久間元防衛庁長官は、ビビって、病院へ逃げ込んだ。だが、政界のターゲットは、久間でも額賀でもない。
 かつて、小沢の側近だった田村秀昭である。
 田村は、防衛大一期生で一九八九年一月、航空自衛隊幹部学校長(空将)で退官。同年七月の参院選で初当選して三期を務めた後、今年七月に引退したが、現在も国民新党副代表の地位にある。
 田村の政界入りをバックアップしたのが、自民党元副総裁で防衛庁長官も務めた金丸信と小沢で、当時、田村の選挙資金を負担したのが山田洋行だった。
 このとき、金丸がつくった「日本戦略研究センター」は、防衛商戦の"陰の司令塔"と呼ばれたほどで、防衛庁に、深く食いこんでいた。
 政界の防衛利権は、ここからはじまったようなもので、90年代の役員には、自衛隊制服組OBの参院議員・元陸上幕僚長の永野茂門(98年引退)が理事長、田村秀昭(07年引退)が副理事長、伊藤忠相談役・瀬島龍三氏が顧問に就いた。
 山田洋行も、当時、日戦研センターの法人会員だったが、当時はまだ零細企業だった。
 同社が、驚異的に業績をのばしてゆくのは、防衛庁OBの宮崎元伸(93年から専務)が入社してからで、九二年には120億円、〇七年には350億円と売り上げをのばし、短時日で、業界屈指の防衛商社となった。
 自衛隊の装備購入に絶大な影響力を発揮していた田村議員の肩入れがあったためで、総額2,200億円のAWACS(空中警戒管制機)のエンジン・メーカーであるGE(ジェネラル・エレクトリック社)の代理店契約を、実績のある極東貿易から奪いとるなどの辣腕を発揮した。
 九三年に海上自衛隊が米製ホーバークラフト一隻(五〇三億円=輸送艦込み)を購入した際、納入業者が三井造船から山田洋行に移ったのも、田村議員の"天の声"があったからといわれる。
「田村は小沢の側近中の側近」(防衛省関係者)だったことから、小沢の天敵・野中広務元官房長官が、九三年十月の衆院予算委で「AWACS購入の決定に特定の政治家が関与している」と、当時の細川首相や中西啓介防衛長官を執拗に責め立てている。
 山田洋行事件が、政界に飛び火したら、小沢も、うかうかしていられない。
 今回の摘発は「山田洋行」と、同社から分離独立した「日本ミライズ」の商権争いや告訴合戦に端を発している。
 といっても、喧嘩両成敗ではなく、捜査は、同社の宮崎元専務の背任と守屋次官の収賄を軸にすすめられており、日米共助法で、地検に協力している米司法局も、その線でうごいている。
 現在、山田洋行の代理人に立って、守屋や宮崎を攻撃しているのは、「日米平和・文化交流協会」(理事・綿貫民輔/瓦力/久間章生/額賀福志郎/ウィリアム・コーエン/マイケル・アマコストら)の専務理事で、なおかつ、「安全保障議員協議会」(会長・瓦力/副会長・久間章生/額賀福志郎)の事務局長を務める秋山直紀である。
 今回、検察は、山田洋行側に立っている秋山直紀や米司法局と足並みを揃えている。
 捜査の矛先は、はじめから、宮崎・守屋コンビに絞られているのである。
 ロッキード事件のときも、検察と米司法局が手をむすんで、田中角栄を追いつめた。
 アメリカからの圧力は、アーミテージやラムズフェルドとも近い「日米平和・文化交流協会」を経由しているのではないか。
 ちなみに、山田洋行事件がおきると、福田康夫、石破茂、額賀福志郎が、揃って、同会を脱会した。
 どんな不都合があって、三人は、十月末日、あわてて同会を辞めたのであろうか。
 ちなみに「原爆投下はしょうがない」という久間発言は、「日米平和・文化交流協会」の空気を反映したもので、それだけ、メンバーのメンタりティが、アメリカ寄りだったということになる。
「日米平和・文化交流協会」グループの久間や額賀、秋山直紀、検察、そして、米司法局が標的にしているのは、山田洋行ではなく、「日本ミライズ」の宮崎と守屋元次官である。
 その視野のなかに、小沢がとらえられている。
 脅しの手としては、上等である。
 小沢がアメリカに楯突くと、防衛汚職の政界ルートを洗うぞ、というわけである。
 金丸失脚後、「日戦研センター」をひきついだのは、たしかに、小沢だが、同センターはすでになく、小沢が、どの程度、防衛利権にからんでいたのかもわからない。
 だが、田村元議員の線から、小沢を洗うことはできる。日米共助法は「相手国から協力を要請された場合、捜査に協力しなければならない」という義務項目がある。アメリカが小沢の捜査を検察に依頼した場合、検察は、アメリカ司法局から依頼という形で、小沢の調書をとれるのである。
 アメリカは、国益に反すると見れば、戦争をしかけて、元首(パナマ・ノリエガ/イラク・フセイン)でも、拉致して、刑務所にぶちこむような国である。
 アメリカが、海上自衛隊によるインド洋の給油を再開させるため、新テロ特措法に反対の小沢排除に、非常手段をもちいたとしても、けっして、ありえない話ではない。
 ワシントン発の時事通信によると、ゲーツ米国防長官は、十一月一日の記者会見で、日本政府が海上自衛隊によるインド洋での給油活動を中断したことについて「比較的速やかに、願わくば、数週間以内に再開してほしい。数か月以上もかかってほしくない」とのべている。
 福田首相も、八日、首相官邸で、来日したゲーツ米国防長官と会談して、インド洋における海上自衛隊の給油中断を平身低頭で詫び、給油再開にむけて、新テロ対策特別措置法案の成立に全力をあげると約束した。
 わたしの考えでは、検察・米司法当局による「日本ミライズ」捜査と、国会での新テロ特措法案の審議は、並行してすすみ、小沢・民主党が折れなければ、防衛汚職の政界ルートが洗われることになるのでないか。
 そうなると「田村ルート」のほか、山田洋行の顧問についている民主党の東祥三元議員へも司直の手がのびるかもしれない。
 アメリカの意向がはたらいているかぎり、捜査の方向が「日米平和・文化交流協会」「安全保障議員協議会」の関係者へむくことはないだろうが、守屋の国会証言、あるいは、宮崎の調書しだいで、捜査が、山田洋行へ拡散される可能性もないではない。
 とくに、守屋が、国会で爆弾宣言をすれば、その可能性が高まる。
 その場合、捜査対象となるのは、政界ルートではなく、金融ルートである。
 もともと、山田洋行の母体である山田グループは、不動産を中心としたコングロマリットで、社長の山田正志は、旧住友銀行・西川善文元頭取(現日本郵政社長)と組んで、RCC(債権回収機構)を一枚かませた債務トバシをやってきた男である。
 そのダミーに使われたのが、山田洋行で、これに反発した宮崎専務が、同志をひきつれて「日本ミライズ」を設立、GE(CXエンジン)の契約を山田洋行から移した経緯がある。
 宮崎は、じぶんが育て上げた「山田洋行」を債権処理のダミーに使われたことに反発したのである。
 見方を変えると、背任は、山田洋行なのである。地検が解明しようとしている宮崎元専務の一億円の使途不明金も、三人の役員(宮崎専務・秋山常務ら)のボーナスで、これをプールして、新会社に投資したことが横領といえるか、疑わしい。
 先のブログで、わたしは、小沢が反米を戦略にするなら、徹底的にやるべしと書いた。
 これまで、経済摩擦はともかく、政治・外交分野で、アメリカに楯突いた政治家は一人もいなかったからで、反米も、日本という国が、大人になる試練となると思ったからである。
 だが、その前に、検察=米司法局の手で、隠れていた巨悪が掘りだされることになるかもしれない。
 今回は、第一回なので、全体像を描く必要があり、長文にわたった。
 第二回から、端的に細部の検証をすすめていきたい。


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2007年02月20日

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その5)

Iフィリピン司法に受理された一浚の告訴状 
 依頼人が、わたしがコメンテーターをつとめていた二本のテレビ番組を見ていなかったら、フィリピンで行方不明になった人物を探してほしい、などという、とっぴな話がとびこんでくることはなかったろう。
 二本のテレビ番組というのは――フィリピンを舞台にした二つの報道番組――クーデターに失敗して地下に潜伏したグリンゴ・ホナサン元大佐へのインタビューと、わたしが現地入りして、犯人側と折衝にあたった「若王子事件」である。
 依頼人は、わたしを"フィリピン通"と見込んだのであろうが、三年前にフィリピンへつれだされて以来、行方が知れず、生死さえ不明な資産家の御曹司の捜索など二つ返事でうけおえる話では、なかった。
 敢えてひきうけたのは、当時、クーデター未遂事件で、指名手配をうけていたグリンゴ・ホナサン元上院議員の側近や家族から相談をうけて、日比間をたびたび往復していたからだった。
 イミグレーションへの調査依頼なら、多少、顔もきき、力になれるかもしれないと思ったのである。
 もっとも、フィリピンへ同行した弁護士の相談に応じたのは、わたしではなく、グリンゴの秘書で、フィリピンにおけるわたしの秘書役をつとめてくれている井上雅彦だった。
 フィリピン在住が三十年以上におよび、タガログ・英語とも堪能で、しかも、行動力があり、辣腕でもある。マニラから遠く離れた寒村に幽閉されていた一浚を救出することができたのは、井上の機転によるところが大きい。
 一浚が発見された経緯については、本ブログで、すでにのべた。わたしの役割は、そこで、終わるはずだった。
 そうならなかったのは、一浚の事件が、「真珠宮ビル乗っ取り事件」と「青山通り刺殺事件」という二つの背景をもっていたからである。
 両方の事件とも、わたしは、詳しい事情を知らず、あとで教わっても、関心は、あまりわかなかった。
 当時、わたしは、友人であるグリンゴ・ホナサン元上院議員の逮捕、および、獄中からの上院選出馬という切実な問題にかかずらっており、一浚の事件にかんしては、当事者である一浚の義弟と弁護士にお返ししたつもりだったのである。
 わたしが、ふたたび、事件にひきもどされたのは、一浚を誘拐・拉致した福田賢一が、われわれを誘拐罪で告訴したからだった。この告訴は、当然ながら、却下されたが、その起訴の背後に、日本大使館と、捜査当局の影が見え隠れしていた。
 一浚事件の背後にあった二つの事件が、日本の捜査当局の干渉から、はからずも、浮上してきたのである。
 わたしは、一浚が、誘拐と拉致で賢一をフィリピン当局に告訴する経緯をみまもることになった。
 われわれが、賢一のもとから一浚を救出したしたことを、日本の当局が誘拐とみなすのであれば、司法の場を借りて、賢一が一浚を誘拐・拉致した事実関係を、はっきりさせておかなければ、けじめもつかず、われわれの潔白も証明できない。
 一浚が賢一を訴えた起訴状が正式に受理されたのは、2月19日である。
 書類をみるかぎり、フィリピンの司法は、日本とはちがい、起訴の受理が、有罪判決の一部を構成しており、その後の審理で、有罪確定や量刑がきまるようである。
 その判決文が、事件のあらましや、これまでの経緯をのべているので、注釈をくわえて要約を紹介する。

フィリピン共和国/法務省/地方検察庁/カバナツアン市
原告/鷲渕一浚
被告/福田賢一(鷲渕賢一)
罪状/誘拐罪及び重大な不法監禁罪

判決文(resolution)
 鷲渕一浚は、日本国内において10億円余りの財産を有する企業の共同所有者である。一浚の会社の役員と称する野崎(青山通り刺殺事件の被害者)は、片桐勇一と共謀して一浚の会社の財産を奪う計画を立て、本件事件の被告人である鷲渕賢一を、一浚の養子に仕立てた。

(注)一浚が筆頭株主になっている真珠宮(ビル)は、当時、母親の千枝が代表取締役をつとめていた。野崎は、当初、千枝に接近したが、疎んじられて一浚にのりかえ、ことば巧みにとりこんで、千枝や実妹のまりえと離反させた。
 一浚は、会社の印鑑や預金通帳を野崎に預け、このとき、預金から八億円が引き出されている。野崎らは、一浚を放蕩生活に誘いこみ、その結果、一浚は、交通事故をおこして刑務所に収監された。
 出所の際、野崎は、福田賢一を保護人に申請して、賢一を身元引受人した。
 出所後、野崎は「ヤクザに狙われている」と一浚を二年間、精神病院(長谷川病院)に隔離して、強力な薬物を投与させた。心身ともに衰弱した一浚が長谷川病院から退院した2003年9月、野崎と片桐、賢一は、一浚に「日本にいると殺される」と脅して、フィリピンへ連れ去った。
 カバナツアン市ビリャ・オフェリア、バレンスエラ通のアパートで監禁状態にあった鷲渕一浚は、NBI(国家犯罪捜査局)の手で救出されたのち、フィリピン当局にたいして、賢一からうけた被害の状態をのべた。
 賢一は、2003年から2006年にかけて、一浚にたいして精神的・肉体的拷問をくわえ、不法に、自由を侵害した。くわえて、そのかん、薬物を投与して、盲目になるまで一浚の健康を悪化させた。
 この時期、賢一からパスポートを取り上げられるなど、一浚の行動の自由は、極端に制限されており、実質的な監禁状態にあった。一浚の付添い人として、野崎グループに雇われていたテレシタ・アベサミスも、この不法監禁について証言している。
 賢一の反論に、「一浚を長谷川病院に入院させ、フィリピンにつれてきたのは、精神に異常があるためで、保護していたのは、面倒を必要としていた一浚にたいする思いやりだった」とあるが、一浚は、「精神障害者でもなければ、アルコール中毒者でもない」とする国立精神保健センターの診断からしても、賢一の反論に正当性はない。
【賢一を一浚の後見人とした経緯】
 保護者申請は、賢一とその共謀者である野崎と片桐によって仕組まれたもので、一浚の身柄と財産をコントロールするための手段であった。その結果、被害者(一浚)は、パスポートを取り上げられ、銀行通帳にしめされているとおり、預金がゼロになるまで現金を奪い取られた。

(注)この判決では、一浚が、アルコール中毒や精神障害者ではなかったことに目がむけられている。犯罪の仕組み自体は、それほど複雑ではないが、一浚に心神耗弱がみとめられると、誘拐が保護にすりかわり、正当な訴えが虚言とみなされるような逆転が生じかねない。
 フィリピンの司法も、そのあたりの事情をふまえ、松下弁護士が東京家庭裁判所へ提出した「保護者解任請求書」を重視、判決文のなかに<後見人としての権限を抹消した東京家庭裁判所の命令文>を引用している。
「後見人抹消に関する請願理由」の一部を要約して、一部を紹介する。
 @2000年10月26日の公判によると、鷲渕賢一は、鷲渕一浚の後見人に指定されているが、一浚に、その件は報告されておらず、一浚が、後見人の指定を知ったのは、2006年の10月以降である。
 A後見人としての指定を受ける以前、野崎と片桐、賢一は、一浚と千枝の預金、数億円と株式会社真珠宮の預金およそ10億円(発行株式数8000株のうち、千枝が5000株、一浚が3000株保有)を不正に引き出している。
 B賢一らは、飲酒運転による交通事故で滋賀刑務所に勾留されていた一浚にたいして、養子縁組をすれば刑務所から出られると一浚をそそのかし、無断で、賢一との養子縁組をすすめた。その後、賢一は、一浚を酒浸しにさせて、アルコール依存症の診断書をとり、家庭裁判所へ後見人としての任命を要請した。
 C一浚の妹鷲渕まりえは、フィリピン警察に協力をもとめ、弁護士や他の協力者の助力をえて、2006年10月9日に一浚を救出した。現在、一浚は、不法居住者になっているため、フィリピンで在留資格をえる手続をとっている。
 D一浚は、フィリピン入国管理局において「財産の略奪を目的とした不法監禁」、および犯罪行為によって生じた損害賠償の申立をしている。フィリピン入国管理局と国家警察の共同捜査により、賢一は、2006年10月20日に逮捕され、マニラ郊外にある留置場に身柄を拘束されている。ちなみに、一浚は、NHKやTBS、その他のメディアによるインタビューを終え、現在は、日本大使館、フィリピン入国管理局、その他の機関からの事情聴取を受けている。
 E故鴛淵千枝と鴛淵一浚の所有財産である新宿駅の南側付近にある25億円相当のビル(真珠宮ビル)は、野崎和興、片桐健一、福田賢一のグループに乗っ取られたが、いまもなお、犯罪組織とのあいだで、奪い合いになっている。

(注)鴛淵千枝は、生前、野崎や片桐、賢一が、役員にはいりこんで財産を収奪しているとみて「株主総会不存在確認請求事件」をおこしている。野崎らは、最高裁まで上告したが、敗訴した。
 F認知症がすすんだ千枝は、上記の三人組につれさられたのち、死亡した。彼女の遺骨はいまだにかれらのもとにある。
(注)一浚が滋賀刑務所から出所すると、野崎は、練馬の老人ホームで生活していた千枝を神奈川県綾瀬の老人ホームへ強引に転居させ、敗訴になっていた十数件の裁判をすべて取り下げさせ、ふたたび、役員として復帰する。このとき、千枝の証券をすべて換金したばかりか、ビル賃料一億円、裁判の保証金なども奪い、千枝を無一文にして、死亡させている。ちなみに千枝は、認知症のほか、拒食症で衰弱しており、治療をうけていた練馬の老人ホームから転居させると、死亡する可能性が高かった。それを承知で、野崎らが、千枝をつれだしたのだとしたら「未必の故意」による殺人ということができよう。
【結論】
本件事件にかんする資料にもとづき、当事者本人による後見人の指定が効力を失っていることをみとめ、当裁判所は、その権限をもって、以下のとおり判決を言い渡す。
【主旨】
鷲渕賢一、通称福田賢一は、鷲渕一浚にたいして、重大な不法監禁の事実があったと証明された。よって、被告人にたいする添付の告発状を当裁判所に提出するのが妥当と思われる。

 日本の起訴にあたる判決(決議文)がでたことで、この件は、落着した。
 一浚が、永住権をえることができれば、これまで面倒をみてくれたフィリピンの女性とマニラで暮らすことになるだろう。
 わたしが頼まれた仕事は、終わったが、それですべて、決着がついたわけではない。
「真珠宮ビル乗っ取り事件」の民事訴訟は今後もつづき、賢一が本審で有罪ということになれば、それをうけて、片桐にたいする訴訟もすすめられるだろう。三人組の主犯だった野崎が死亡した「青山通り刺殺事件」も、解決したわけではない。
 民事訴訟にかんして、一つ、はっきりしたことは、一浚がフィリピンで発見されたことによって、「不存在証明」が完成したことである。
 鴛淵家は、野崎グループを相手取って、株主総会の無効を訴える裁判をおこしている。事実上の乗っ取りになった株主総会の出席者のなかに、一浚の名がある。裁判で、株主総会の決定が取り消されると、片桐に、損害賠償のほか、業務上横領や詐欺の容疑もでてこよう。
 この事件のレポートは、一応、ここで終わる。むろん、新しい事態が生じたら、続報を書く用意があるのはいうまでもない。

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(了)
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2007年02月09日

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その4)

 H賢一の「反論」と一浚の「反・反論」

 われわれは、賢一の反論供述書が、カバナトワン地方検察局に提出される予定になっていた一月九日をまった。反論は、フィリピン警察から「誘拐・拉致」の疑いで起訴された賢一にあたえられる異議申し立てで、それによって、起訴か不起訴かが決定する。
 ところが、一月九日に反論宣誓供述書は提出されず、二十三日まで延長された。
 後藤という賢一の代理人が不起訴工作をしていることは、すでにのべた。
 賢一の「反論供述」待っているわれわれのもとに、後藤がおこなっている、検事や入管にたいする画策情報がはいってきた。
 入管局や国家捜査局に、さまざまなコネクションを使って不起訴工作をしているものの、思うような反応が得られないらしい。後藤は友人に「何かおかしい。いつもと違う」とぼやいていたという。
"袖の下"がまかりとおるフィリピンでは、コネやカネで、法的措置に手心がくわえられることが、すこしもめずらしくない。入管手続きも例外ではなく、なかでも、曲者が、強制送還である。
 フィリピンの入管法では、局長と三人の副局長が署名した略式送還命令書だけで、どんな犯罪をおかした外国人容疑者でも、強制送還することができる。強制送還が、事実上の無罪放免になっているのである。
 後藤らは、検事局や入管にはたらきかけて起訴を見送らせ、強制送還で、賢一を日本へ送り返そうというのであろう。
 昨年の十一月、フィリピン政権与党のバーバス下院議員が、二回にわたって「出入国管理局の上層部がワイロをうけとって、外国人の犯罪者を海外に逃がしている」と、フェルナンデス入管局長と三人の副局長の計四人を名指しして、略式送還命令書をめぐるワイロの実態を告発した。海外へ逃がす、というのは、強制送還のことである。
 入管の幹部は「事実無根だが、調査して、議会に報告する」と答えている。だが、フィリピン人で、この答弁をまにうけた者は、一人もいないだろう。

 さて、カバナタウン地方検察局に提出された賢一の「反論供述書」である。
 二十三日、同検察局に届けられた「誘拐・拉致」容疑にたいする賢一側の反論供述書は五ページで、最後に「上記の反論供述は、宣誓供述書のごく一部であり、引き続き、反論宣誓供述書を提出する権利を保留する」とある。
 これにたいして、一月三十一日、一浚の弁護人(フィリピン人)は、10項目にわたる宣誓供述書を同地方検事局に提出した。
 賢一の反論と、一浚側からの反・反論を併記してみた。

賢一の反論
「一浚はアルコール中毒患者で、酔払い運転で人身事故をおこし、刑務所に収監された」
一浚の反・反論
「交通刑務所、長谷川病院、フィリピンで自由を失っていた計六年半に、一滴のアルコールも口にしていない者が、どうしてアルコール中毒なのか。アルコール中毒症という医師の診断書はどこにも存在しない。賢一が、本人に秘匿して、裁判所に提出した保護者選任申立書にも『アルコール依存症』としか書かれていない」
賢一の反論
「一浚は精神病を患っており、長谷川病院(精神病院)に二年間入院した」
一浚の反・反論
「長谷川病院への入院は『身の安全をまもるため』という、フィリピンへつれてきたのと同じ理由からで、薬物投与以外、精神病の治療をうけたことはない」
賢一の反論
「フィリピンへ来たのは、一浚の自発的な意思である」
一浚の反・反論
「じぶんの意思でフィリピンへ来たというなら、わたしは正気で、賢一もわたしの意思を尊重したことになる。精神病だったという供述と矛盾する」
賢一の反論
「当該訴訟は、一浚の本心ではなく、あるグループの誘導である」
「あるグループとは、一浚の義弟、弁護士、および、かれらの援助者である」
「かれらの目的は、一浚が所有するビル会社の株式を譲りうけることである」
一浚の反・反論
「あるグループというのは、唯一の肉親であり、わたしの安全や健康を願っている実妹の依頼をうけ、わたしの保護にあたっている肉親(義弟)、弁護士とその協力者である」
「わたしが所有するビル会社の株式を奪おうとしているのは、鴛淵家の財産を奪い、わたしを拉致して人権を蹂躙した賢一らで、わたしの肉親やわたしを援助している人々ではない」
賢一の反論
「一浚が服用していた薬物は、賄い婦があたえたもので、賢一は関与していない」
一浚の反・反論
「長谷川病院を退院して、フィリピンにつれだされたあとも、ひきつづき、長谷川病院であたえられたものと同じと思われる薬物をのむように強要された」
「わたしが服用させられていた薬物の処方箋は、賢一が所持し、薬物を処方したのは、賢一の指示をうけた医師である。賄い婦は、わたしに薬物をのませるように、命じられたにすぎない」(賢一逮捕の際、所持品のなかから処方箋を回収したフィリピン警察の担当者は「こんなものを長期間のんでいると、頭がおかしくなる」と証言している)

 養子縁組についても、賢一と一浚の見解は、対立している。
 交通刑務所を出所するとき、賢一やKから、「身元引受人がいなければ出所できないので、賢一を一浚の養子として縁組みしたい」という申し出があったが、一浚は、了解していない。その後、一浚の収監中に手続きがすすめられたが、一浚は、まったく気がついていなかった。
 ちなみに、この養子縁組の前に、七十六歳になる鴛淵千枝とKの婚姻入籍が計画されていたという。Kが既婚者だったためこの計画が流れ、代案として、かれらは、賢一と一浚の養子縁組を考えついたものであろう。

 一浚が検察局に提出した反論書は、30ページにわたって、賢一の供述書の虚構をことごとく論破している。
 フィリピンの刑法では、最終反論供述書が提出されてから、担当検事15日、上席検事15日、計30日間の猶予期間を経たのち、起訴か不起訴がきまる。賢一の最終反論供述書と一浚の宣誓供述書が出揃った以上、後は、担当検事や上席検事が、どう評定するかである。
 反論供述書による攻防は、法律に添った表面的なたたかいである。
 一方、われわれにつうじている情報屋から、後藤らがイミグレーションや捜査局にはたらきかけている裏側の情報も入ってくる。
 一浚が宣誓供述書を提出(一月三十一日)した日の夕方、井上に「後藤らがイミグレーションや国家捜査局のルートの工作を諦め、政治関係者に手を打ったらしい」という情報がはいってきた。わたしは井上にたずねた。
「政治関係者とは、国会議員か?」
「国会議員ではなく、地方の有力者のようです」
「地方の有力者?」
「地元の市長とか。地方検事の就任には、地元の市長の同意書のようなものが必要になります。その関係で、どこでも、市長と検事は、昵懇の仲です」
「ところで井上君、カバトワンの市長は、われわれが初めて一浚と会ったとき、地元警察を紹介してくれた人ではないのか」
「そうです、マラカニアン(政府)から手をまわして、地元の警察に便宜を計ってくれたひとです」
「それなら、この事件について、よく理解しているはずだ」
「念には念を入れよ、です。政府のHと連絡をとってみましょう」
 井上とわたしは、突如としてあらわれた市長対策を練らねばならなかった。
「ところで井上君、我々の弁護士(フィリピン人)は何といっているの」
「賢一側は猛烈な勢いで不起訴工作をしているが、一浚側は、すでに反論供述書で、賢一側の嘘で塗られた供述書は論破できている、心配するな、といっています」
「われわれは、油断なく、あらゆる状況を想定して、打つべき手を打ってきたが、油断は禁物だ」
 ちょうどそのとき、耳よりの情報が入ってきた。
賢一がイミグレーションに逮捕された折、日本大使館の領事がとんできて、フィリピン入管局とかけあい、賢一を四日間だけ釈放させた上、われわれを誘拐犯として、カバナタウン検事局に告訴させようとした事実は、すでにのべたとおりである。(この工作は検事局が却下した)
 このとき、賢一は、賄い婦の長女にたいして、猫なで声や泣き落としで告訴工作の協力をもとめ、応じないとみるや、暴力的な言動におよび、挙げ句に「こんなことになるのだったら、計画どおり、殺しておけばよかった」と口走ったという。
 母親から情報をえたわれわれは、翌日、カバナトワンへでかけ、長女から、賢一の言動のすべてを聞きだし、松下弁護士は、長女へのインタビューをすべてビデオに納めた。
 このビデオテープは、今後、フィリピンにおける「一浚の誘拐・監禁事件」ばかりではなく、殺人事件までおこしている東京の「真珠宮ビル乗っ取り事件」の民事裁判で有力な証拠となるのではないだろうか。
 われわれが、必要な情報入手すべく、とびまわっていた二月一日の夜、長い交友関係をもっていた政府高官のAから食事の誘いがあった。
 わたしは、こんどの事件の概要を話し、アドバイスをもとめた。Aの返答はこうだった。
「外国人同士の争いは、フィリピン当局にとって、迷惑この上ない。裁判は、じぶんの国でやってもらいたいものだ」
「しかし、監禁場所がフィリピンで、入管法違反問題は、フィリピン国の管轄ではないか」
「それはそうだが、裁判は、わが国の税金でおこなわれる」
それから、こう、ことばを継いだ。
「当事者の片方が、外国人旅行者でなく、わが国の永住権をもっていれば、フィリピンの捜査当局も、公判における取扱いも、もっと親身になるのではないか」
 われわれは、さっそく、一浚にAのアドバイスをつたえた。一浚は乗り気だった。
「日本に帰っても、一人では生活できない。いままで面倒をみてくれた賄い婦が、一生、世話をすると約束してくれている。フィリピンで、残りの人生を送りたい。永住権が取れるなら、そんなうれしいことはない」
 井上と義弟は、松下弁護士に相談して、一浚の永住権申請の手続を開始した。
 打つべき手は、すべて、打った。後は、フィリピン当局の判断を待つばかりである。

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その5)へ続く


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2007年01月15日

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その3)

 D誘拐の被害者を救出して、なぜ、加害者呼ばわりされるのか? 
 昨年の十月二十三日、マニラの入管本部で、「出入国管理法」違反容疑で逮捕された賢一の再訊問がおこなわれた。
 このとき、NHKが、出頭した賢一の取材をおこなっている。
 ところが、殺人事件のからみがあって、放映はむずかしいという。
 のちに詳しくふれるが、新聞報道によると、真珠宮ビル乗っ取りと一浚の誘拐に関与した三人組のリーダー、野崎の殺害事件には、別件で逮捕されている暴力団がからんでいる。
 しかも、その別件逮捕の告訴人が、野崎とK、賢一の三人組という、複雑な構図なのである。
 殺人事件がからんでいる――というのは、一浚をフィリピンにつれだし、拉致していたのが、三人組の一人、賢一だったからである。
 われわれは、その賢一から、一浚を解放させた。
 ところが、一部の日本人社会で、事実が、曲げてつたえられた。
 われわれが、一浚を誘拐したというのである。どこかに、作為的に、ニセ情報を流している筋があるのであろうか。
 さまざまな情報が交錯するなかで、とくに、われわれを悩ましたのが、一浚救出にたいする国家権力の誤解と妨害だった。逮捕・起訴権をもつ日本の警視庁と、国家の出先機関である大使館が、われわれが一浚を誘拐した、という見解に立ち、さまざまな工作を仕掛けてくるのである。
 われわれが、一浚を救出した経緯は、すでにのべた。警視庁や大使館が、これを、誘拐という根拠は、いったい、何なのか。
「危ないですね。あなたたちの相手は、国家権力ではありませんか」
 一浚との一時間におよぶインタビューをおこない、海外の邦人誘拐事件として報道すべく準備をすすめていたTBS取材記者のことばが、ズシリと、胸に響いた。
 警視庁が、マスコミに作為的なリークをおこなうことは、よくある。われわれを、一浚の誘拐容疑で事情聴取をおこない、逮捕がありうるような情報を流せば、マスコミは、勝手に推測記事を垂れ流すだろう。
 われわれは、弁護士、評論家、会社経営者で、社会的信頼という土台がなければなりたたない職業についている。誤解であろうと、いったん、マスコミで、犯罪人として報道されてしまうと、たとえ、あとで取り消してもらっても、社会的生命を失いかねない。
 評論活動の一方で、今回のような、ジャーナリスト的なテーマにも積極的にとりくんできたわたしは、朝日新聞などの大メディアから誤報を流され、大きな社会的損失をこうむった経験をもっている。
 さて、われわれの懸念は、入管法違反による二十日程度の拘留のあと、日本に強制送還された賢一が、一浚の身柄引き渡しをもとめてきた場合、これに対抗する有効な手段がないことだった。
 一浚は否定しているが、日本の裁判所は、法制上、賢一が、一浚の養子であり、保護者とみとめている。松下弁護士が案じるとおり、親権争いになれば、一浚の実妹の夫である国安より、賢一のほうに分がある。
 一浚を誘拐・拉致した賢一が、一浚をひきとった国安よりつよい親権をもっているということは、賢一がわれわれをフィリピン当局に訴えた場合、誘拐の訴状が受理される可能性もあるということである。
 対抗手段は、一浚の意思表示である。一浚が、賢一の保護下におかれていること、賢一と養子関係にあることを法的に解消すれば、賢一と一浚の関係は、もとの、加害者と被害者の関係にもどる。
 井上は、そのためにも、一浚の精神鑑をおこなって<被保護者>の根拠となった心神耗弱の認定を解いておくべきと考え、フィリピンの一流病院に鑑定の手続きをとった。
 望ましい兆しもでてきた。一浚は、イミグレの供述調書で、養子縁組のことも、保護者確定のことも、知らなかったとのべたのにたいして、イミグレが、全面的に、一浚の言い分をみとめたのである。
 井上が、賢一を「誘拐監禁」で告訴するよう主張した。そこを突破口にすれば、打つ手は、ありそうだった。
 ちなみに、一浚は、わたしにたいして、こんなメモを書いている。 
 鴛渕一浚陳述書 
 私こと鴛渕一浚は、福田賢一(野崎グループの一人、もう一人はK)によってフィリピンに連れてこられ、その間、パスポートを取り上げられ、金銭の所持を禁じられ、しばしば暴力をふるわれ、監禁状態にありました。また、白内障のため、一人での歩行が困難な状態です。
 2006年の一〇月九日、山本峯章、井上雅彦、国安嘉隆らの尽力によって救出され、パスポートの申請手続き、福田賢一に対する告訴をおこなっていただきました。
 福田賢一は、私を精神病者に仕立て、平成十二年一〇月二六日、保護者選任の申し立てをおこない、東京家庭裁判所は、私の保護人として福田賢一を選任しました。
 福田賢一は、私にこうした事実を知らさず、Kらと共謀、私の財産、預貯金を収奪し、株式会社真珠宮の株式を勝手に譲渡しました。
 かれらは、加害者でありながら、被害者を装い、警視庁をつうじて、フィリピン日本大使館に、山本峯章、井上雅彦、国安嘉隆らが、私を誘拐、監禁していると申し立てています。
 監禁し、暴力をふるったのは、福田賢一です。福田賢一は、自分で勝手に私の養子になって鴛渕姓を名乗り、二枚のパスポートを使い分け、日本とフィリピンの間を頻繁に行き来しております。

 E日本大使館が、一浚にパスポートを発給 
 一浚の不法滞在は、賢一の誘拐監禁によって生じた。フィリピン警察も、逮捕権をもっているイミグレも、一浚の調書をもとに、誘拐監禁で賢一にたいする刑事告訴を受理するとみて、われわれは、フィリピン人の弁護士に手続きをまかせて、十月末、帰国した。
 三度目のフィリピン入国は、11月4日だった。大使館から、一浚のパスポートを発給してもらうためである。パスポートがなければ、こんどは、一浚が、パスポート不携帯で逮捕されかねない。
 十月二十五日。国安が日本大使館へ行き、一浚のパスポート発給をもとめている。ところが、大使館側は、本人に会って事情を聞きたいと、従来の態度を変えない。
 大使館は、パスポートをとりにきたら、一浚の身柄を保護するという。一浚の身柄が警視庁に移送されると、賢一らの拉致は善意の保護で、逆に、われわれの救出が、誘拐にあたるというシナリオがデッチあげられかねない。
 フィリピン人弁護士と松下弁護士の二人が、一浚のパスポートをうけとるべく、大使館と交渉を開始した。わたしと井上、一浚の三人は、取材を申し込んできたマニラ新聞の記者をともなって、大使館の隣のホテルに陣取った。
 大使館は、取材記者の同行を拒んだ。二人の弁護士だけで大使館におもむくと、担当領事は、われわれのホテルで話をしたいという。ホテルの一階に借りたビジネスセンターの会議室にはいってきた領事に、わたしは、たずねた。
「あなたたちが誘拐犯人の黒幕といっている山本ですが、何をもって、誘拐と判断したのでしょうか」
「わたしは、そんなことをいっていません」
「それでは、一浚のパスポート発給に、問題はありませんね」
 領事は、内ポケットからパスポートを取り出して、一浚に手渡した。その領事が、そのあと、われわれに「一浚さんと二人で話をしたい」と申しでた。
 領事と一浚の話は20分ほどで終わり、領事は、大使館にもどった。領事が一浚にたずねたのは「二人きりだから、本当の気持ちをいってほしい。何かいいたいことはないか」だけだったという。このことから、わたしは、日本大使館へ、どこかから、圧力がかかっていたらしいと、推測した。
 11月7日、フィリピン国家警察により賢一の誘拐監禁に関する告訴が受理され、賢一の長期拘留が決まった。これで、一応、イミグレ法違反による賢一の強制送還の可能性はなくなり、その後、賢一がカバトワン検事局でおこなった、われわれにたいする告訴は失敗に終ったという情報がはいり、わたしは、帰国した。

 Fインターポール(国際刑事警察機構)も動き出す 
 十一月十日頃、わたしの赤坂のオフィスに井上から電話がかかってきた。
 政府要人であるH氏からの情報で、日本側(インターポール東京)がフィリピンのインタポールをつうじて、情報収集をはじめたという。H氏の情報によると、要旨は、二点あるという。
 1、鴛淵一浚が2006年10月9日に、ある者に誘拐され、その後、解放された事実があるかどうか。
 2、2006年10月23日頃、鴛淵賢一がフィリピン入国管理局に逮捕された形跡があるかどうか。
 インターポール東京からインターポールマニラに、この調査依頼書がついたのは、十一月初旬である。
 この時期、警視庁捜査四課は、すでに、井上の仲介で一浚と直接電話で話し合い、一浚がじぶんの意志で賢一の監禁から逃れた事実をつかんでいる。本来、この時点で、警視庁は、賢一やKにたいして、一浚の誘拐・監禁容疑の捜査をすすめるべきではなかったのか。
 一浚は、大使館との話し合い、じぶんが自由の身であることをのべて、正式にパスポートを受取った。このとき、われわれが一浚を誘拐したという虚構も、崩れ去った。
 一浚の意思を確認しながら、警視庁が、フィリピンのインターポールに情報収集を依頼したのは、なぜか。
 一浚は、真珠宮ビルの所有会社の御曹司であり、株主でもある。誘拐監禁が、殺人事件と因果関係があったとしても、われわれが一浚を救出したのは、それと、何の関係もない。
 警視庁関係者は、青山通り事件発生後、賢一をマニラに呼び出し、二回ほど、事情聴取をおこなったという。捜査の専門家がマニラにまで出掛けながら、なぜ、行方不明になったまま、フィリピンで不法滞在者になっている一浚に事情聴取をおこなわなかったのであろう。
 一浚が解放されることによって、警視庁に何か不都合があったのであろうか。
 あるとすれば、一浚を監禁していた賢一が、青山殺人事件の容疑者となっている暴力団の告訴人だからではあるまいか。
 松下弁護士によると、一浚が救出されたと知った警視庁は、暴力団(後藤組)のY弁護士(主任弁護士)に電話をかけ、「あの二人(一浚、賢一)に何かおきたら、あなたにすべての責任をとってもらう」といったという。
 Y弁護士と、松下弁護士、国安、わたしとのあいだに、接点はない。
 一浚の誘拐監禁という大事件を看過する一方、一浚の解放にY弁護士が関与しているかのようにきめつける日本の捜査当局のやり方に、わたしは、疑問をいだかざるをえない。

 G賢一のガードに謎のフィクサー人登場 
 12月6日、フィリピン人の弁護士と一浚、井上の三人がカバトワンの地方検察局に出頭した。賢一にたいする起訴前の審判が予定されていたからである。
 ところが、当事者である賢一の姿はなく、あらわれたのは、弁護士資格をもたない後藤という代理人だった。
 われわれは、この男に、いちど会っている。
 一浚を救出した際、日本でいう公証人役場の機能をもつ法律事務所を探した。一浚の証言に法的根拠をもたせるため、日本の裁判所でも通用する書類を作成しなければならなかったからである。そのとき、井上と20年近い交友関係をもち、日本の旅行者や在留邦人の入管手続などのコンサルティングをおこなっている観光会社に相談にのってもらった。
 われわれは、そこの日本人経営者から、後藤を紹介されたのである。
 後藤は、マニラで、いくつかの法律事務所に関係して、フィリピン国内の日本人の相談にのっているほか、大使館関係からも、仕事の依頼を受けているという。
 われわれは、売り込みにきた後藤を日本料理屋に案内して、意見を聞いたことがある。
 後藤はそのとき、「この国では、権力者と人間関係をもっていれば、大方のことは解決する」と自信たっぷりにのべている。
 フィリピンでの活動が長いわたしも、フィリピンの特殊事情は、いやというほど、知っている。
 そのとき、後藤の介入を断ったのは、われわれ自身、後藤をよく知らず、われわれにも、政府筋に、人脈があったからである。
 賢一やKと、後藤の接点は、日本大使館と思われる。
 というのも、後藤が、カバトワンの検事局で入手した一浚の供述書のコピーを日本大使館にファックスしている事実を――われわれが雇ったフィリピン弁護士が、確認しているからである。
 後藤がいかにフィクサー的実力者でも、正当な理由なく、賢一を拘置所から釈放させることはできない。できるのは、不起訴の工作だけである。
 われわれの弁護士によると、入管局も国家捜査局も、一浚にたいする誘拐と三年間にわたる監禁を立件する自信をもっているという。
 だが、後藤にいわせると、フィリピンでは、コネとカネで、犯罪者を不起訴にすることができるのである。じじつ、ある筋によると、後藤は「面子にかけても不起訴にしてみせる」とうそぶいている。
 12月19日も、賢一は、カバトワン地検に出頭しなかった。検事側は、賢一に反論を、一浚には、賢一の反論にたいする再反論の機会をあたえるため、2007年1月9日〜10日まで、起訴を猶予するという。
 賢一が検事局に出頭してこないのは、裏で、不起訴工作がすすんでいることを知っているからであろうか。
 フィクサー後藤が、賢一を不起訴にできるのか、できたとすれば、どんな策略をもちいるのか、われわれには、当分、事態の推移をみまもるしか、ないのである。

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その4) へ続く

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2007年01月11日

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その2)

 B御曹司の救出に、ふたたびフィリピンへ 
 政府役人のH氏と地元警察に一浚と賢一の監視をたのみ、日本に帰ってから、約5か月が過ぎた10月初旬、井上から電話がかかってきた。H氏からの情報で、賢一が日本に帰るため、フライト予定7日付けのチケットを購入したという。
 賢一がそばにいると、一浚は、本心を打ち明けない。一浚と鴛淵家が屈託なく話し合えるチャンスを待っていた松下弁護士は、一浚の妹の夫、国安をつれて、すぐ、フィリピンへ飛ぼうという。
 松下によると、一浚と国安は、胸襟を開いて話し合ったことが、一度もない。野崎や片桐が、一浚の代理人として立ってきたからだ。その野崎グループから、妹や国安が財産を独り占めしようとしていると吹きこまれていた一浚は、親族を恨んでいる。
 われわれ三人が、フィリピン航空431便で成田を飛び立ったのは、賢一が日本にむかった十月七日である。
 その日、マニラの国際空港で待っていた政府要人のH氏と井上とともに、三人は、宿泊先のセンチュリー・パークホテルにむかった。
 このホテルは、かつて、若王子事件やグリンゴ・ホナサンによる数回におよぶクーデター事件、あるいはマルコス・イメルダ夫人の帰国問題など、取材のたびにもちいた常宿で、当時、このホテルにあったテレビ朝日の支局のスタジオから、わたしは、日本に何度か映像を送った。
 松下弁護士、国安、井上、H氏とともにホテルにはいり、一息ついてから、ミーティングを開いた。
 賢一は、その日のフィリピン航空で、日本に発っている。井上も、賄い婦に電話をかけて、賢一の不在をたしかめている。
 国安は、一浚のもとへ、すぐに出発したいという。だが、H氏が、反対した。一浚が住んでいるカバトワン地域は、住人が政府と共産党から二重徴税をされているフィリピン武装共産党の支配地域で、夜間、自動車でむかうのは危険だったからである。
 翌朝の七時、ワゴン車で現地に向かった。地元警察を同行させてはどうかというH氏の申し出を遠慮したのは、一浚にプレッシャーをかけたくなかったからだった。
 一浚の様子は、前回より、幾分、打ち解けているようにみえた。だが、国安が「兄さんの居場所がわかったので、妻と相談して、会いにきました。妻も心配しています」とつたえても、硬い表情のまま、小声で、ぼそぼそとつぶやいただけだった。
 野崎と片桐、賢一は、鴛淵家の会社や財産を乗っ取るため、妹と国安が財産を独り占めしようとしていると吹き込んで、一浚をとりこんだ。策略にかかった一浚は、賢一に言われるまま、賢一と養子縁組みをおこない、さらに、賢一が家裁へもちこんで取得した保護者権のもとにおかれた。
 かれらは、養子と保護者の立場を利用して、一浚をフィリピンの奥地まで連れ出したのである。
 一浚と義弟、弁護士の話し合いがはじまった。
 私と井上は、席を外した。庭に涼み台が置いてあった。その涼み台に横になると、一浚の世話をみている中年の賄い婦が枕をもってきてくれた。気立てがよさそうなひとだ。いつのまにか、眠ってしまったものらしく、耳元の声で目をさますと、国安と井上、松下弁護士がそばに立っていた。
「マニラにもどります」
 と松下がいう。わたしは国安にたずねた。
「一浚さんは?」
「一緒です」
 松下が補足した。
「一浚は、カネもパスポートも取り上げられていました。鴛淵家やビル会社などの情報をシャットアウトされたまま、いままで、自由も奪われていたといっています」
「監禁状態におかれていたのなら、なぜ、だれかに助けをもとめなかったのだろう」
「知らない土地で、頼れるひともなく、ほとんど、目が見えません。一人歩きができないうえに、カネをもっていないのですから、どうして、逃げだせたでしょう」
 国安が、安堵した面持ちで、いった。
「一浚は、賄いをしていた女性をマニラへつれていきたいといっています」
 カバトワンからマニラまで五時間、ひっそりとした車内で、一浚と賄いの女のヒソヒソ声だけが聞こえていた。やがて、その声も、消えた。二人とも、われわれ三人と同じように、日暮れとともに眠ってしまい、目覚めたのは、十時すこし前、マニラ市内にはいってからだった。
 その夜、行きつけの日本食堂で、六人で一緒に夕食をとった。一浚に食欲がなく、口数が少なかったのは、興奮と緊張のせいばかりではなかった。そのときは、だれも気づいていなかったが、一浚は、賢一から、しばしば、暴力をふるわれていた。
 一浚は、逃げだしたことによって、賢一から報復をうけるのではないかと、ひそかに、怯えていたのである。
 翌朝、一浚の食欲は、うってかわって、旺盛だった。ホテルの食堂で、つぎからつぎへ、賄いの女性に料理を運ばせ、むさぼりついた。食べっぷりから、それまで、いかに貧しい食事をしていたか、うかがえた。
 昼過ぎ、H氏の案内で、一浚とわれわれは、フィリピンの入管局に出頭した。
 担当者は、タテマエをおしとおす。「どんな理由があるにしろ、3年間の不法滞在を大目にみることはできない。一浚は不法滞在者、賢一は不法滞援助者として逮捕、強制送還の対象となる」
 H氏は、顔見知りらしい入管の職員に、温和にたずねた。「何かよいアイデアはないかね」
「不法滞在が、本人の意思ではなく、監禁状態から生じたのなら、賢一を告訴してはどうです」
「告訴は受理してくれるね」
「鴛淵一浚が、犯罪の被害者なら、それがいちばんよい救済策です」
 一浚は、その日一日かけて、入管の職員に、フィリピンに連れてこられた経緯や状況をこまごまと陳述した。フィリピン入管当局は、一浚が、誘拐監禁によって、不法滞在者となった事実をみとめ、一浚が、賢一を不法監禁で告訴するという前提で、賢一にたいする捜査の手続にはいった。
 入管法違反で逮捕されても、せいぜい、二十日前後、身柄を留置されたのち、日本へ強制送還されて、以後、フィリピンに入国することができなくなるだけである。だが、不法監禁で懲役刑を宣言されると、こんどは、当分、フィリピンからでられなくなる。

 C警視庁から思いもかけない警告と恫喝 
 一応の決着をみたので、あとを国安にまかせ、十一日、松下弁護士とわたしは、帰国した。
 その松下弁護士に、警視庁から、思いもよらない電話がかかった。
「あなた方は、何ということをしてくれたんだ。もし、一浚に何かあれば、責任を取ってもらう」
 松下は反論した。
「監禁状態にあった一浚の求めに応えて、救出をしただけです」
「いま、一浚は、どこにいる」
「井上さんや義弟が、アパートを探したり、病院に連れて行ったりしています。マニラで自立できる環境を整えているのです」
「井上とはだれだ」
「今回、お世話になったフィリピン在住の日本人です」
「その男の電話番号を教えろ」
「本人に断りなく、電話番号を教えるわけには行きません。必要なら、井上さんの方から電話をかけるようにたのんでみましょう」
 松下は、監禁されていた日本人を助けて、なぜ、警視庁に叱られるのか、狐にでもつままれたような気持ちで、井上に電話をかけ、警視庁捜査4課の係官と連絡をとるようにたのんだ。
 井上が、松下から教わった番号に電話すると、Aという捜査官が出た。
「井上ですが、どんなご用件ですか」
「あなたは、じぶんのやっていることがわかっているのか」
「監禁された日本人が助けてくれというので、救出の手伝いをしただけです。それが何か悪いことですか?」
「正しいことをしているつもりでも、それが、とんでもない大間違いということもある。この事件の裏に、大きな問題があるのを知っているのか」
「フィリピンに長く在住しているので、日本のことはよくわかりませんが、まちがったことはしていません。フィリピンの法では、被害者は、監禁状態におかれていたのですから」
「フィリピンの法律など関係ない。すぐ手を引くことだ」
「親族のひとから、協力をもとめられたのです」
「親族とはだれだ」
「義弟の国安さんです」
「国安、そんなものは親族ではない」
「困りましたね」
「松下弁護士と山本に相談することだ」
 井上は、捜査官の高飛車な物言いに、あっけにとられたという。二、三のやりとりのあと、捜査官が、たずねた。
「一浚はどこにいる」
「すぐそばにいますよ」
「一浚に代われ」
 電話を代わった一浚が、英語で話しはじめた。警視庁の係官が代わって、一浚に英語で話しかけているのである。一浚は、アメリカで大学を終え、長いあいだ、米国系の企業に勤めていた。その情報を入手していた警視庁は、電話の主が一浚かどうか、英語でたしかめたのである。
 一浚は、長期間、賢一に監禁されていた事実を告げ、今回、じぶんの意志で、救助をもとめたことを、英語でのべた。井上が、一浚に代わって受話器をとると、警視庁の係官は、無言で電話を切った。
 警視庁が、一浚の救助にクレームをつける一方、フィリピン警察は、一浚の誘拐・監禁事件に、迅速に動いた。一浚と賢一が住んでいたネバイシア・カバトワン市は、国家警察ルソン本部の管轄である。 
 十月十八日、国家警察と入管本部は、出入国管理法違反で逮捕状をとって、賢一を逮捕した。
 出入国管理局の「外人専用留置場」に留置された賢一の釈放に、意外なことに、日本大使館が、うごいた。その結果、入管が、「日本大使館が責任をもつ」という約束で、賢一を四日間にかぎって釈放した。賢一がむかったのは、カバトワンだった。
 賢一は、われわれ四人を「誘拐罪」でカバトワン地検に告訴したのである。
 この告訴がみとめられると、救出ではなく、一浚を誘拐したことになって、逆に、われわれが、カバトワン地検から逮捕状を執行されることになる。
 このアイデアは、賢一のものではない。シナリオを書いたのは、大使館か、警視庁ではあるまいか。
 それにしても、一浚本人から救出をたのまれたわれわれが誘拐犯なら、誘拐された被害者は、いったい、どこにいるのか。賢一と大使館、警視庁がグルになっても、われわれを誘拐犯にするのは無理な話だが、フィリピンでは、常識をこえたことが、しばしば、おきる。
 入管の捜査員は「賢一が一浚の養子になっている以上、身内として、は義弟の国安さんより法的な根拠がつよいのではないか」という。
 しかも、賢一は、一浚の保護者になっている。一浚は「賢一がわたしの保護者とだれがきめたのか、わたしは、了解していない」と主張したが、日本では、手続き上、賢一が一浚の保護者になっている。
 入管の捜査員によると、カバトワン地検が、親権を根拠に、賢一がわれわれを誘拐犯とうったえた告訴状を受理する可能性があるという。
 大使館が責任をもって、賢一の身柄を入管に引き渡すのが、4日後だった。
 そのかん、カバトワン地検から呼び出しがかかったら、万事休すである。
 マニラで待機していたわれわれに、その四日は、じつに長い四日間であった。

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2006年12月25日

「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その1)

@行方不明の御曹司を探しにフィリピンへ 
 わたしがこの怪事件にかかわることになったのは、四月の初旬、弁護士事務所からかかってきた一本の電話からだった。
「フィリピンで行方不明になった人物を探して欲しい」
 というのである。わたしは、フィリピンに知り合いが、すくなくない。かつて、マルコス政権と日本財界の癒着問題や「若王子誘拐事件」を追い、グリンゴ・ホナサン元上院議員、および旧マルコス政権人脈との付き合いも、長年にわたっている。
 行方不明になったの人物は、新宿の商業地にビルを所有する鴛淵家の相続人で、数年前、何者かに、成田空港からフィリピンへつれだされたという。
 電話をかけてきた弁護士は、親族からの依頼をうけたものの、フィリピンで行方不明者を探す手立てがなく、人伝でようやく、フィリピン・ウォッチャーのわたしにつきあったらしい。
 つまり、わたしはまったくの偶然から、この事件にかかわることになったのである。
 鴛淵家(行方不明者の実妹)の代理人である弁護士の依頼を受け、わたしは、フィリピンにおける秘書役で、友人でもある井上政彦(グリンゴ・ホナサン前上院議員の秘書)に電話で調査を依頼した。
 井上は、手始めに、イミグレーション(出入国管理局)で、出入国カードをあたった。
 行方不明者の氏名は鴛淵一浚。入国は確認できたが、出国の記録はなかった。ということは、フィリピン国内にいるのだ。しかも、不法滞在である。親族に連絡を絶っているところから、死亡していることも考えられるが、死体を探すことは不可能だ。
 生存していながら行方が知れないのであれば、監禁されているか、刑務所にはいっている可能性もある。イミグレーションをつうじて、フィリピン国内の日本人受刑者のリストを入手したが、そのなかに、鴛淵一浚の名はなかった。
「日本人受刑者リスト」など、尋常な方法で、手にはいるものではない。入手できたのは、わたしや井上が、フィリピン政官界にコネをもっていたからである。
 残った手がかりは、一浚が、入国時に出入国事務所に申請した「入国後の現住所」だけである。だが、一浚がその現住所にいたのは、一時期で、建物の持ち主によると「同居人と一緒に、隣り町かどこか、ここから、それほど遠くないへんぴな場所へ移った」という。
 現住所は、日本人が足をふみいれることのない地方の寒村で、NPA(共産ゲリラ)の勢力範囲でもある。そこから、さらにへんぴな場所へ移ったとなると、目的はいったい何なのか。
 新宿の一等地にビルを構える資産家の御曹司が、何者かとともに、NPAが支配するフィリピンの奥地へ、ある日、忽然と姿を消した理由が、さっぱりわからない。
 井上が、コネや人脈をつかって、周辺の町や村で聞き取り調査にあたり、いくつか、有力な情報を入手した。「ヘンな日本人を見た」「パンツ一枚で歩き回っていた」「頭がおかしい」「ドラッグをやっているようだ」という情報が、ある小さな町に集中している。顔写真を見て「似ている」という住民もみつかった。
 このとき、フィリピン政府(大統領府・広報担当)の有力者H氏が、昔からのよしみから、協力を買ってでてくれた。その町にむかったわたしと井上、弁護士の三人に、地元の警察が同行(パトカー二台、武装警官三名)したのは、H氏の配慮からで、武装NPAのほか、ギャングや誘拐団の脅威があったからだった。
「ヘンな日本人がいる」と教えてくれた住人の案内で、古びた建物の二階に上がってゆくと、廊下に、半裸の老人が横たわっていた。案内した住人が、その老人に指をむけている。
「このひとが、鴛淵一浚?」
 わたしは、顔をのぞきこみ、「一浚さんですか?」とたずねた。一浚の反応は、予想外なものだった。顔を引きつらせ、「だれだ、あなたは」と怯え、壁づたいに後退るのである。
 わたしが写真で知った鴛淵一浚は、どこかのクラブで美人ホステスと戯れているにやけた男で、目の前で、床に寝転んでいる老人とは、イメージがつながらない。
 だが、顔の輪郭や頭のかたち、体型に、写真のおもかげが、わずかにみてとれる。
 弁護士が、「妹さんの依頼で助けにきました」と告げた。だが、恐怖と憎悪がいりまじった表情にかわりはなかった。
 一浚が、われわれを、危険な集団と思いこんだのは、一浚をフィリピンにつれだし、監視下においていた福田賢一の入れ知恵のせいである。

 A御曹司誘拐グループの意外な正体 
 弁護士の話によると、賢一は、鴛淵家の遺産紛争やビル乗っ取りに関与している三人組の一人で、一浚の誘拐犯だという。ところが、日本の警察は、鴛淵家の刑事告訴をはねつけている。遺産相続の内輪もめと見たのであろう。
 わたしは、知らなかったのだが、その二ヶ月前、三人組のリーダー野崎和興が、青山通りで刺殺されている。下肢を刺して動けなくした後、とどめをさすやり方から、プロの手口と報じられた。 
 一浚が、殺し屋の影におびえたのは、まんざら、思い過ごしというわけではなかったのである。
「日本にいると命を狙われる」と一浚をフィリピンへつれだした賢一は、鴛淵姓を名乗っている。養子縁組をおこない、一浚の養子になって、表面上、一浚の保護人を任じているが、実際は、鴛淵家の財産目当てであろう。
 一浚が立ち上がった。井上と弁護士が、両脇に立った。一浚は、盲人の手さぐりの格好で、ゆっくり、一階の部屋へむかった。われわれは、一浚が失明状態になっていたことに、そのときはじめて、気づいた。足元もおぼつかない。痩せ方、皮膚の色から、素人目で、栄養失調とわかった。
 わたしと井上は、部屋へはいるのを遠慮した。一浚と親族の代理人とのあいだに、他人が立ち入ることができない、闇のようなものがありそうだったからである。そうでなければ、一浚が家族の前から、無断で姿を消すわけも、迎えにきた鴛淵家の弁護士に、恐怖や憎悪の表情をうかべるわけものない。
 わたしは一浚をみつけてほしい、と頼まれたが、鴛淵家の問題について、相談をうけたわけではない。席を外したのは、そのあと、一浚を日本につれて帰ろうと、そのまま放っておこうと、弁護士と鴛淵家の問題で、わたしが関与すべきことではなかったからだった。
 わたしと井上氏が、部屋にはいったのは、それから30分後、賢一が外出先からもどってきてからである。
 それまで、一浚と弁護士がどんな話をしていたか、井上もわたしも知らない。あとから聞いた話では、弁護士が「みなが心配している、日本へ帰ろう」と語りかけたというが、一浚は、ぎこちない表情で「(賢一に相談せずに)勝手にきめられない」と答えたという。
 賢一の後を追うように、わたしが部屋へはいると、一浚は身を固くして、表情をこわばらせたままだった。賢一が、一浚の保護者なら、考えられない反応である。
 賢一に、わたしは、たずねた。
「一浚をフィリピンにつれだしたのは、なぜです」
「暴力団に命を狙われていたからだ」
 一浚もうなずいた。その一浚に、訊いた。
「パスポートはどうしました?」
「賢一に渡した」
 賢一は、あわてて、手を左右にふった。
「紛失、紛失、失くしたんだ」
 弁護士が、賢一をちらりと見てから、一浚にいった。
「それでは、マニラへ行って、再発行してもらわなくては」
 賢一の表情に渋いものがうかんだ。わたしは、三人のやりとりを見て、一浚が本気で暴力団に殺されると思いこんでいること、その仕掛けをつくったのが、賢一が下っ端をつとめる件の三人組であろうと、確信した。
 わたしには、それまで、賢一が一浚をフィリピンにつれだしたのか、それとも、国外へ逃亡した一浚に同伴しているだけなのか、判断しかねていたのである。
「一浚は長期にわたって不法滞在になっている。このままでは、フィリピンの出入国管理局(検事局)に逮捕される」と、弁護士が詰問しても、賢一は、「わたしの一存ではきめられない。片桐さんに相談しなければ――」と煮えきらない。
 片桐というのは、青山通りで刺殺された野崎の相棒で、賢一には、兄貴分にあたる人物である。
「それでは、すぐに、片桐さんに連絡をとってください」と弁護士がたたみかけると、賢一は、「今夜、片桐と連絡をとる」と、渋々、答えた。
 われわれは、その夜、地元の小さなホテルに投宿して、翌日、ふたたび、賢一と一浚が住むアパートを訪ねた。
 賢一によると、片桐と、前夜、連絡をとったが、弁護士との電話連絡を拒否したという。その賢一も、われわれの質問に、口を閉ざした。片桐から「余計なことをいうな」と釘を刺されたのであろう。
 一度、ひきあげるほか、なさそうだった。名義上の世話人である賢一が一浚のそばにいるかぎり、一浚をとりもどすことができそうになかったからである。
 気がかりは、一浚である。賢一や片桐が、一浚を別の場所に移してしまったら、二度と、みつけだすことができないかもしれない。
 この難問を解決してくれたのが、H氏である。地元警察に二四時間態勢で監視させ、かれらが、別の場所に移った場合、新しい居所まで追跡する手筈を整えてくれたのである。
 それから、約半年後、賢一が日本へ来るという情報をえて、われわれは、ふたたび、フィリピンへ飛ぶことになるが、事件は、思いがけない方向へ転がってゆく――。
(「青山通り刺殺事件」と「真珠宮ビル乗っ取り事件」の深層(その2)へ続く)
posted by 山本峯章 at 02:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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